

はじめに
イエス様の招きに初代の弟子たちがどう応答したのか、使徒行伝第1章からみ言葉に聞いていきます。信仰とは、キリストの言葉を信じ受け入れて、招きに応えていくことです。そのための絶対条件こそ、イエス様が勝ち取られた聖霊の祝福だとルカは語ります。今月は聖霊降臨日(ペンテコステ)を視野に入れながら、聖霊の働きを強調した使徒行伝からみことばに聞いてまいります。今回は祈りと聖霊の祝福の関係についてみことばに聞きます。
すべてに先立つ最優先事項
弟子たちが夢見ていたこと、期待がますます高まっていたのが、イエス・キリストが独立運動家として国民の先頭に立って国の独立を勝ち取ることでした。かつて中東で絶大な独立国家として繁栄したイスラエルにとって、ローマ帝国の圧政から独立する事がすべての人の悲願だったのです。弟子たちも例外ではありませんでした。しかし、イエス様はこの考えを「あなたがたの知る限りではない」、父なる神の責任事項だと一蹴しました。
弟子たちは間違った優先順位、人生目標を立てて生活していたことがうかがえます。神様が願っておられる事柄ではなく、すべきことを知っていながら、優先順位の低い事柄に時間を費やしてしまうのが人間の弱さです。イエス様が祈るように訴えた聖霊の祝福こそ、全人類の最優先事項なのです。
聖霊がもたらす唯一無二の祝福
イエス様はこのことを8節で強調しました。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは~地のはてまで、わたしの証人となるであろう」と。9節によれば、これがイエス様が弟子たちに託した最後の言葉でした。これは家族、友人知人を教会の諸集会に誘うことではありません。聖霊様の明確な関わりが無くても人を教会に誘うことは可能です。ネット広告で世界(地の果て)に発信して教会の宣伝をすることも可能な時代です。このような伝道のことではなく、イエス様が強調したのは私たち一人一人が「証人となる」ことでした。そのために必要不可欠なのが聖霊様の特別な働きなのです。
この具体的な内容は次回以降に委ねるとして、イエス様の証人になるとは、イエス様が人類にとってどのような唯一無二の救い主なのかについて証しすることをいいます。イエス様が他の宗教の教祖と決定的に違う点もそこに存在します。単に生きる希望、励ましや人生訓ならば、神道、仏教を始め、世界の名だたる宗教の指導者の教えの中にも傾聴すべきものはあるでしょう。宗教という枠を外しても世界中には示唆に富み、人生をより豊かにする書籍が数えきれないほど存在します。それにも関わらず、イエス・キリストだけが実現できることが存在します。だからこそ、その内容を一人でも多くの人に証しすることが重要なのです。365日、24時間、世界中で最も実行し続けることが求められていること、それが「イエス様の証人」です。
罪と義と裁きを理解させる聖霊
ヨハネによる福音書は次のように伝えています。「しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主(聖霊)はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。」(ヨハネ福音書16章7-8節)
聖書の中でも最も重要な教理であり、最も理解することが難しいのが「罪と義と裁き」の教えではないでしょうか。大多数のクリスチャンが他の人に説明するのに苦労する内容です。これまでの人生で、あなたは何人の人に実際にこれを証しすることができたでしょうか。罪の説明、神の義、そして神の裁きについて語ることはだれにとっても簡単なことではありません。しかし、それでもこれこそがクリスチャンの使命、教会の使命だとイエス様は最後に強調して、昇天されたのです。そこで、特に正確に理解しなければならないのが、助け主である聖霊の果たす「世の人の目を開く」という役割です。
福音宣教の核心とは、私たちが聖書に基づき、罪と義と裁きについて証しすることです。その時、聖霊が私たちの霊性と口を整えて相手の理解の目を開いて下さるというのが、この教えの勘所です。私たちが聖霊の助けを信じてこれを他の人に証しする時にだけ、これは体験できるものなのです。
「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」江戸時代の中期、米沢藩(現在の山形県)の第9代藩主であった上杉鷹山(ようざん)が、次期藩主や家臣たちに教訓として授けた言葉で、「何事も意志を持って行えば成功する。成功しないのは、人がそれを実行しようとしないからだ。」という言葉が教会に問いかけているものは大きいように思います。そして、私たちの信仰においては、自力で『為す』のではなく、聖霊の助けによって『為されていく』ことが非常に大事です。
聖霊の「力を受ける」
イエス様は別れ際に聖霊がくだる時、私たちは「力を受けて…証人となる」と語られました。十字架のあがないを遂げ、復活されたイエス様には、信じてみ言葉に従う教会に、約束の聖霊を与えることが可能でした。そのためには、弟子たちが聖霊から力を受けるために祈祷会に集中し、イエス様の教えを忠実に実行することだけでした。
懐中電灯がどんなに暗闇を照らす役割を期待されていたとしても、肝心要のバッテリーがなければ本来の役割を果たせないのと同じです。聖霊こそが私たちが証人として活躍するための必要不可欠なバッテリーです。これなしには世の光としての役割を果たすことはできないのです。
おわりに
14節 彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。
弟子たちが実践したこと、それはこの主題に集中し、心を合わせて祈祷会を行ったことでした。しかも一時的ではなく、ひたすらこのために祈り抜いたことが強調されています。
2026年度を迎えた私たち、そして聖霊降臨日礼拝を目前に控えた私たち、共にこの祝福を体験するために心と祈りを合わせて参りましょう。