はじめに
イエス様の大宣教命令は、この二千年間、全世界で受け継がれてきました。イエス様が弟子たちに託された内容は、現代に至るまで宣教の中心課題を明示しています。この短い言葉の中に凝縮された福音宣教のエッセンスを、さっそく確認していきましょう。
イエス様が勝ち取られた権威の偉大さ
マタイによる福音書28章18-20節(新約50p)
28:18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」
開口一番のこの宣言は、イエス様が十字架の贖(あがな)いと復活を遂げ、今や何をその手に収めておられるかを端的に示しています。これは、イエス様が霊的な次元を含む一切の存在の頂点に立たれたことを示しています。 復活以前、イエス様は人間として様々な制約を受けておられました。死の可能性のある有限な存在であり、心身共に傷つき、疲れる肉体を有しておられました。そのため、悪魔の誘惑と攻撃を人一倍受けながら生き抜くという、極限の人生を過ごされたのです。父なる神が遣わされる聖霊の徹底的な援助なしには、ひと時も御心に従うことができないほど、過酷な現実の中で生涯を全うされました。
しかし、聖書のすべての預言を忠実に成就したことによって、イエス様はすべての制約から完全に解放されました。悪魔も、死さえも、イエスの御名の下にひれ伏さざるを得なくなったのです。復活されたイエス様は、それほどまでに生前とは違った圧倒的な存在として戻って来られました。その権威と確信を持って弟子たちに託されたのが、本日の大宣教命令なのです。
すべての民を弟子とするために
28:19 それゆえに、あなたがたは①行って、②すべての国民を③弟子として、④父と子と聖霊との名によって、彼らに⑤バプテスマを施し、28:20前半 あなたがたに⑥命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。
①「行って」…これは派遣の言葉です。これについては最後にもう一度取り上げます。
②「すべての国民を」… 宣教の対象は文字通り「すべて」です。未信者だけでなく、クリスチャン同士も含む、人生で出会うすべての人が対象です。自分を殺害しようとした人々さえ、イエス様にとっては宣教の対象でした。この原則は世の終わりまで不変です。
③「弟子として」…イエス様が愛し、救い、霊的な成長を導きたいと願っておられる仲間として、隣人にふさわしい敬意を持って接することを指します。
④「父と子と聖霊の名によって」…三位一体は理解が難しい概念です。「わたしの名によって」となっていた方が分かりやすいと思われるかもしれません。しかし、それぞれが果たす役割の違いを意識することは、信仰を深めるために不可欠です。万物の源泉であり創造の主である父なる神、その父と共に創造に携わり、私たちの罪を贖うために肉体を取って歩まれた御子イエス様。そして、今も私たちと共にいて、御言葉を理解させ、主の業をなすための賜物を与えて導いてくださる人格的な助け主である聖霊様。イエス様ご自身も地上の歩みの間、この聖霊様の助けと導きの中で父なる神の御心を成し遂げられました。私たちは、この三位一体の神との豊かな交わりの中へと招かれているのです。
⑤「バプテスマを施し」…儀式そのもの以上に、その「意味」が重要です。バプテスマは古(いにしえ)より、その共同体に加わることを意味していました。それはキリストのからだなる教会の正規の仲間として共に祈り、成長し、福音宣教の業に励む「群れ」となることを指します。
⑥「命じておいたいっさいのことを守る」…これは高いハードルです。聖書を学びつつ、失敗や忍耐を重ねる経験が必要です。それでも、その歩みには価値があることを信じ、互いに励まし、支え合ってキリストの体を建てあげていくことが期待されています。
イエス様の覚悟
28:20後半 見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
大宣教命令の場面(16節〜)で強調されているのは、中には「疑う者もいた」という事実です。40日間も復活の主と接しながら、なお疑いを払拭できないのが人間の現実です。しかし、続く18節に「イエスは彼らに近づいてきて言われた」とあります。疑い、心理的な距離を置いてしまう弟子たちに対し、イエス様の方から自ら近寄ってくださるのです。
この命令は、信仰が完成した人々に対して与えられたのではありません。弱さを抱えたままの彼らを信頼し、使命を託されたのです。その最大の保証が、「世の終わりまで、いつも共にいる」という約束です。「見よ」とは、その臨在を実体験せよという招きです。天と地の権威を持つイエス様が、離れそうになる私たちに自ら近寄り、最後まで共におられる。これこそが、私たちの宣教の根拠なのです。
1830年頃のアメリカで、ジョージ・ウィルソンという男が郵便局を襲撃し、死刑判決を受けました。しかし、当時のジャクソン大統領は彼に「恩赦(無罪放免)」を与えました。ところが驚いたことに、ウィルソンはこの恩赦を拒否したのです。「恩赦は受け取らなければ無効か、それとも大統領の署名がある以上有効か」という前代未聞の裁判になり、最高裁はこう結論づけました。
「恩赦とは紙切れに過ぎない。受け取る側が拒絶すれば、それは恩赦としての効力を持たない。したがって、彼は処刑されなければならない。」
イエス様は「いっさいの権威」を持って、私たちに「共にいる」という最大の恩赦と特権を与えてくださいました。しかし、私たちが「自分は不完全だから」「疑いがあるから」と距離を置いて拒んでしまえば、その祝福は体験できません。今日、自ら近づいてきてくださるイエス様の右手を、私たちなりの覚悟を持って受け取ろうではありませんか。バプテスマはイエス様ご自身も受けられたところの、生涯で最も重要な決断の一つなのです。
おわりに
次回は、このイエス様の招きに初代の弟子たちがどう応答したのか、使徒行伝第1章からみ言葉に聞いていきます。信仰とは、キリストの言葉を信じ受け入れて、招きに応えていくことです。今週も全世界で主の招きに応えてバプテスマが行われ、その教えを守る福音宣教の業が豊かに展開されることを切に祈ります。