

本日のお花と礼拝風景
はじめに
神様に呪われた者だということを決定づける当時の処刑方法、十字架刑。これを神様は人類を祝福し、罪とその呪いから救う方法として逆利用しました。神様は呪いと絶望を象徴する十字架を、イエス様の復活を通して永遠の命と希望に創り変えて下さったのです。
今回と次回は一連のペテロの第二回伝道メッセージの後半部分に耳を傾けます。特に異彩を放つのが20節です。この箇所の存在が、これまでのペテロの説教内容や4つの福音書の内容を根本から捉えなおす必要を考えさせられるからです。その理由を聖霊様の助けをいただきながら、ご一緒に理解を深めていきましょう。
十字架の概念を根底から創り変えて下さる神様
使徒行伝3章17-20節(新約184p)
3:17 さて、兄弟たちよ、あなたがたは知らずにあのような事をしたのであり、あなたがたの指導者たちとても同様であったことは、わたしにわかっている。3:18 神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。3:19 だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。
ペテロは前回箇所で神様に対して犯した許されざる罪を心から悔い改めるように促した後、鞭と飴を使い分けるように、今回の箇所では、聴衆が希望を回復していくことができるような口調で話しだします。
この度の大変な悲劇は、民の大きな無知が重なって起きただけでなく、このような事態になることを聖書は既に預言していて、それが成就したのだと主張しました。だれもが絶望し、断罪を覚悟しなければならないレベルの神様への反逆さえも、心から悔い改めれば、神様はその罪から救うことがおできになると主張したのです。
しかも、その救いは、一番責任が重いと思われるイエス様を有罪になるように民衆を扇動したユダヤ教の指導者たちにも開かれていると主張したのです。これは16節までの内容から大きく軌道修正を加えた希望につながるメッセージでした。
これを理解した上で、19節の最初の結論部分を押さえておきましょう。「自分の罪をぬぐい去っていただく」こと、これがキリスト教の最も重要な福音であることは言うまでもありません。これが可能だと聖書が主張するのは、生まれてから死ぬまで、人類でただ一人、
神様に対して罪を犯したことがないお方が存在するからです。それが聖書が預言していた救い主イエス・キリストです。このお方が神様に永遠に呪われて死ぬことを象徴する十字架刑で処刑されたにもかかわらず、復活された事実こそ、逆説的にナザレ人イエスが、無実であり、預言のメシヤ・救い主・キリストだと証明しているのです。
十字架刑で処刑された人物さえも、神様がもう一度、この世に復活させることがおできになるということは、すべての罪人の福音になります。ナザレ人イエスはその象徴なのです。「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」、「信じて罪から解放されよ!」この福音を信じた結果、奇跡が起きたのです。イエス様こそが人類を罪とその呪いから救うことができる救い主なのです。
キリストの再臨に関する初代教会最初のメッセージ
3:20 それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである。
今回の聖書箇所で驚かされるのは、キリストの再臨を示唆する説教内容にまでペテロが踏み込んでいることです。悔い改めて本心に立ち返るべき理由として、罪とその呪いから救われるためだけでなく、キリストの再臨に備えるためだとペテロが主張しているからです。
キリストの再臨に備えて、生き方を完全に神様の御心に沿うものにしていくことが非常に重要だと熱弁します。「それは」この言葉にここまでのペテロのメッセージの結論部分が集約されていくことが汲み取れます。
ここまで理解した上で、ペテロが再臨についてどう説明しているかを見ると、それは主のみ前から慰めの時が来るからだとペテロが主張していることがわかります。イエス様が十字架に掛けられる前の晩に行われた最後の晩餐の席で、確かにイエス様は一見、十字架刑の後の復活について語っているように思える場面で、それだけではないことがわかる、謎めいた言葉を口にしています。
ヨハネによる福音書16章1節では「これらのことを語ったのは…」と前置きをした上で、後に弟子たちがかなり厳しい迫害に遭うことを預言していました。また、同11節以降では「さばきについてと言ったのは、この世の君が裁かれるからである…」と語っています。当時の弟子たちも、この箇所を読む私たちにも、かなり難解な内容です。
14章冒頭の「あなたがたは、心を騒がせないがよい…」で始まる箇所も、キリストの受難と復活だけを示唆している内容ではなく、キリストが場所の用意が出来た時、再臨されることを語っています。さらに、16章12節では「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに耐えられない…」と語っています。
イエス様は短い言葉、短い時間で、これから数時間後に起こること、数日後に起きること、数か月後に起きること、数年後に起きること、さらには数十、百、千年後に起きることまで預言することをやってのけたのです。
イエス様の将来預言や今回の箇所は、このような事情があるため、難解どころの騒ぎではないのです。キリストの受難前の弟子たちには、まさしく「今はそれに耐えられない(理解することが不可能な)…」ものだったのです。そして、現代に生きる私たちには、それが聖霊様のおかげでハードルが少しだけ下げられたのです。それでも、まだまだ難解だと言わざるを得ません。
おわりに
聖書は、はじめてこれに触れる者にも、長年触れて来た者にも、常に新鮮な悟りを与え得る神様の預言です。特に今回のような箇所は聖霊の助けなしには、到底ここに語られている深淵な神様の再臨に関する教えを理解していくことはできません。
しかし、今回の箇所で特に希望なのが、「主のみ前から慰めの時が来る」との約束があるからです。この希望が必ず信仰者の身に訪れる故に、私たちは全力で生き方を悔い改め、聖書の教えに完全服従する価値があるのだと今日の箇所は私たちを励ましています。
イエス様の壮絶な受難を経て、勝ち取って下さった「慰めの時が来る」ことを信じ、今週も聖書の教えに少しでも忠実に生きる者となれるよう、聖霊様に創り変えていただきましょう。