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礼拝説教

9月13日主日礼拝奨励 「主の名による最初の奇跡②」 斎藤信一郎牧師

本日のお花

はじめに

キリスト教会発足後に初めて具体的な癒しの奇跡について語られているのが使徒行伝3章です。先週は、どんな奇跡が起きたのかについて考察しましたが、今回は、ペテロがどんな内容の福音を語ったのかについて焦点を当てます。特に、イエス様がどのような救い主だと信じることが、キリスト教信仰なのかについて学びます。

奇跡が起きるための必須条件

使徒行伝3章11-16節(新約184p)

3:11 彼がなおもペテロとヨハネとにつきまとっているとき、人々は皆ひどく驚いて、「ソロモンの廊」と呼ばれる柱廊にいた彼らのところに駆け集まってきた。
3:12 ペテロはこれを見て、人々にむかって言った、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。

生後40年間自力で歩行できなかった男が癒された後、彼はペテロたちと神殿で礼拝を捧げ、その後も一緒に神殿から出て来て彼らに「つきまとって」いたことが報告されています。癒された男はそれなりに顔が知られていた人物だったらしく、彼を見かけた人々は興味を覚えてソロモンの柱廊に押し寄せました。これはイエス・キリストについて証しするまたとない機会だと捉えたペテロはさっそく話しだします。

ペテロがまず強調したのは、男がつきまとっているからと言って、決してペテロたちが奇跡を起こす能力があるとか、たぐいまれな信仰を持っていたによってこの男に奇跡が起きたのではないということでした。奇跡を起こすには、本人がイエス様こそが聖書が預言していた救い主だと信じる信仰こそが重要なのだと主張するためでした。ただし、ここで大事なのが、「どのような救い主だと信じるか」という福音の中身なのです。

人間側のどんな罪や限界も神様には障害ではない

3:13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光を賜わったのであるが、あなたがたは、このイエスを引き渡し、ピラトがゆるすことに決めていたのに、それを彼の面前で拒んだ。
3:14 あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、3:15 いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。

群衆にイエス様を信じる信仰について具体的に説明する前に、ペテロは聞く者たちに非常に重要な前提について語っておく必要を感じました。それがこの部分です。それは既にイスラエル中の話題になっていた十字架刑で処刑されたナザレ人イエスに関する重要な認識についてでした。
ナザレ人イエス・キリストは多くの民衆までもが陰謀に加担させられる中で、不当に十字架刑で民衆に呪われながら殺害された人物だったこと。しかし、彼こそが神様から特別に遣わされた聖書が預言していたメシヤ・キリスト・救い主だということを、イエス様が復活したことによって証明されたと主張しました。そして、ペテロたちはその復活された神の聖者を実際に目撃した証人でもあると語ったのです。
神に呪われて死ぬことを象徴する十字架刑で処刑された人物こそが、実は聖書が預言していたイスラエルを始め、全世界の救い主となられるべきお方だという事実を信じる信仰こそが、奇跡を可能にしたとペテロが主張するために、先にそれに言及しておく必要があったのです。つまり、神様は兼ねてから罪と死と呪いを象徴する十字架刑を、神様こそがそこから救い出すことがおできになることを証明するために、神の聖者にして、一人子イエス・キリストを用いられたということです。ここでペテロがあからさまに群衆に自覚させようとしているのは、イスラエル中の人がこの度、神が遣わされた救い主を十字架刑で殺害した責任を負っているということでした。このように話してから、本日の結論部分につながります。

イエスの名は罪と死と呪いにさえ打ち勝つ

3:16 そして、(「神は救いである」という意味を持つ)イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとおり完全にいやしたのである。

イエス・キリストこそ、罪と死と呪いを象徴する十字架刑による死さえも完全に克服し、復活して生き返られた神から遣わされた約束の救い主。このように信じることができたことが今回の奇跡につながったのだとペテロは明言したのです。神様ならどんな人も救うことができることを信じることが肝心かなめなのではありません。人間が克服できないでいる罪と死と呪いを、イエス様(神は救い主という意味の名)を信じる信仰によって克服できると直接本人が信じたことが、完全な癒しにつながったのだとペテロは語ったのです。

聖書が導いているのは、単にイエス様が人類の罪をあがなうために十字架に架けられたとか、イエス様が三日目に復活されたことを事実として信じることではありません。だれもが自分たちには不可能だと信じ込んでいる「罪と死と呪いを人間には克服することなどできない」という認識。そして神様はそんなことまで気にかけては下さらないと考える不信仰。これを克服することが可能なのだという福音こそ、今回の奇跡を通してペテロ、そして神様が伝えたかったことなのです。

おわりに

当時、障害を負っている人は、神様から呪われている者だというレッテルを張られていました。また、本人も人生を嘆いていたはずです。しかし、神様は人類の根本的な罪と死と呪いを克服することができることを証明して下さいました。イエス様がその救い主だと聞かされた男は、それを信じて、自らペテロから差し出された手を、自分の方からも手を差し伸べて掴み、これまでにない人生へと引っ張り上げていただくことに身を委ねました。その時、本当に自分の足で立ち、歩き、踊ることができる人生を歩み始めたのです。
この物語の一番の勘所は、見えない信仰という領域で始まるということです。神様はすべての人が経験し、実感し、イエス様を信じて救われることの喜びに満たされて欲しいと願っておられるのです。これが今回の福音です。そして今週の私たちへの信仰のチャレンジです。

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