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礼拝説教

8月2日礼拝説教 「初代教会の真の姿①」 斎藤信一郎牧師

本日のお花

はじめに

聖書は宝が埋まった土地のようなものです。そこをよく調べ、丁寧に掘り下げる努力を惜しまない時、極上の宝が得られます。使徒行伝も例外ではありません。そこから得られる神様の至宝の教えは計り知れません。今回の聖書箇所は、世界最初の伝道集会の総まとめ(40節)、その日の最後に行われたこと(41節)、そしてその後に発足したばかりの教会が何を大事にしたか(42節)が語られています。この初代教会の姿に共に学びたいと思います。

どのような点で曲がった時代なのか?

40節 ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲った時代から救われよ」と言って勧めた。

聖書には、神様の比類なき意志が込められています。そのため、一言一句が計算されて書かれています。そこで、今回まず注意して意味を理解しなければならないのが「この曲がった時代」とは、どのような意味なのかを理解することです。これこそが神様が人類に最も願っている結論部分として、軽く扱うわけにはいきません。

私たちの一番の過ちは、聖書の言葉を一般の本を読む時のように、読むことです。一人子イエス・キリストを十字架につけ、黄泉にまで降らせてまで、人類に与えて下さろうとした神様の意志が詰まった言葉を、同列に扱っていいはずがないのです。
すべてのクリスチャンはこの大前提を肝に銘じ、姿勢を常に正して日々聖書と向き合うことをお勧めします。もともと人類が犯し続けている最大の過ちの一つは、人類のために与えられている神様の人類への意志が詰まっている聖書を差し置いて、様々な書籍の方に莫大な時間を費やしていることです。昔も今も、神様の意志を理解し、実行することよりも、自分の知識や教養、そして趣味により多くの時間を割いていることを、否定できる人はどれだけいるでしょうか。

「曲がった時代」とは、まさに神様の意志以外のことにより多くの関心と時間を費やす人々が多勢を占める世界と時代を言うのです。現代を神様はどのように見ておられるでしょうか。これを各自が問わなければならないのです。そして、その現実の生活習慣から救われなければならないとペテロは語ったのです。

世界最初のバプテスマ式

41節 そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。

この箇所には、にわかに信じ難いことが語られています。世界で初めて行われた伝道集会に、数千人が集まったことも驚きですが、そのうちの約3千人がバプテスマを受けたと報告されています。その意味と重要性を正しく理解することは非常に大事です。

第一に、約3千人が信じた内容とは、イエス様が聖書に預言されていた神様から遣わされた、人類の罪を根本的に解決して下さる救い主だと信じたことです。このことを信じるためには、当時十字架刑で処刑された者は永遠に神様から呪われると理解されていた、それまでの常識を根底から考え直す必要がありました。

第二に、彼らは、イエス様を十字架で処刑した責任が自分たちにもあると認めただけでなく、聖霊の助けによって、神様から滅ぼされても仕方がない罪を犯したと自覚したことです。その時の聖霊がもたらした強烈な罪の自覚は、彼らにただちに神様の御前に罪を認めて命乞いをしなければならないと理解させるに足るものだったのです。そこで、彼らはその日の内にバプテスマを受けたのです。

第三に、バプテスマを受けるということは、今後はイエス様の信仰と生き方を受け継いで生きることを意味していました。これは私たちが想像する以上に勇気と覚悟が必要だったことでしょう。わずか7週間ほど前に十字架刑で処刑されたばかりの重罪人イエス様でした。しかも神様と国民を欺いて間違った聖書理解を民衆に教え、国家を脅かした極悪人と断罪された人物の教えに従う弟子になることを、バプテスマを受けるということは意味していたからです。同時に、イエス様を十字架に架けて殺害した者は、すべて神様の敵対者であると宣言するのと同じです。
これらの理由により、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けるということは、彼ら自身もイエス様と同じ目にあう可能性があるということでもあったのです。このようなバプテスマを受けるということは、本来ならば、かなり躊躇し、怖気づくのに十分であったにもかかわらず、それでもただちにバプテスマを受けることを自覚させたのは聖霊の働き以外には考えられないのです。『…聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。Ⅰコリント12章3節』と聖書にある通りです。

初代教会が重んじた4つ活動

42節 そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。

この日、イエス様こそがキリスト(預言されていた救い主)だと信じてバプテスマを受けた人々は、その後どのようなクリスチャンとしての生き方を特に実践するようになったのかが語られています。
初代教会が重んじた活動は4つにまとめられています。使徒たちの教えを守りとは、聖書を学び合う会を指します。信徒の交わりとは、聖霊の祝福によって体験した証しを分かち合うことを指します。共にパンをさくとは、キリストのあがないの業を大切にする集会を指し、祈りとは、主の祈りを模範に祈祷会をすることを指します。

少し補足をしておくならば、当時のユダヤ人たちにとって礼拝とは、安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)に行う神のあがないの恵みを覚える会堂での礼拝と金曜夕方に行う特別な家庭礼拝を指していました。当時のクリスチャンたちにとって、礼拝とはむしろ安息日に行う欠かすことができない重要な行事であり、42節で大事にしていた活動は安息日以外で「ひたすら」とあるように、頻繁に機会さえあれば、共に集って実行していた集会のようです。特に初代教会で重要視されたのはイエス様が復活し、また聖霊降臨が起きた主の日(日曜日)だったようです。現代の礼拝を考える時、初代教会のこれらの活動は、大きなヒントになるのではないでしょうか。

おわりに

実は41節には、もうひとつ重要なことが語られています。ギリシャ語の聖書では、この時にバプテスマを受けて仲間に加わった…のは「もの=人」ではなく「プシュカイ(ψυχαί)」すなわち「生きた魂」だったと書かれているのです。「生きた魂」を持つもの、それがクリスチャンです。「生きた魂」が共に献身的に仕え合う場、それが教会です。聖霊に満たされた教会とは、心からイエス様を救い主と信じて人生を神様と聖霊の導きに委ねて生きることを最大の喜びとする人々とその活動のことです。このような人生と教会に造りかえて下さる聖霊の御業にこれからも期待したいと思います。

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